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金剛山福蔵院について

当山は真言宗智山派(本山は京都七条の智積院)に属し、甲州市は神金、下小田原区の中心にある金剛山の南端に位置します。山号は大聖金剛山、院号は福蔵院、寺号は降魔寺と称します。
寺伝では、開創は平安時代・行基菩薩とされまますが、平安末期から鎌倉初期にかけて隆盛した甲斐源氏安田義定公の要害の館であったとの地域の伝承も残しています。
本尊は鉱山を司る神である金山彦神(かなやまひこのかみ)の本地仏である十一面観世音菩薩を祀っており、この神金という土地は、十一面観世音菩薩を祀る寺社が数多くあり、古くから金山の関係者による信仰が伺えます。
古の福蔵院には西方(後方)に鎮守である金井加里神社(旧山王権現社)、北方には観音堂、鬼門(北東)に不動堂(移築)、東方に末寺であり山王権現社の別当であった白峯山常聖寺(本尊 弥勒菩薩 文化7年(1810年)火事により廃寺)、南方に薬師堂(移築)と阿弥陀堂(廃寺)と伽藍が数多く立ち並ぶ寺領がありました。
その中でも不動堂不動明王は黒川金山採取祈誓の尊像として集落内外の多くの民から信仰され、福蔵院の歴代住職により加持祈祷が行われていました。(現存する護摩壇は正徳(江戸時代西暦1715年)住職弘通代什具記載有り)
 
また阿弥陀堂内に所蔵してあった阿弥陀如来坐像の掛軸は普段は秘仏とされ、集落内で
重大な病で床に伏せる者あれば、枕元に掛軸を飾り、病を治したと伝えられています。
現在でも地域に残る百万遍の行事の際、寺から掛軸が貸し出され地域内の無病息災が祈
られています。
さらに阿弥陀堂には安永10年(1761年)から天明2年(1782)にかけて木喰白道が地域の
民の願いを聞き入れ、彫り込んだ百体仏(百体観音…三十三観音を3組)が安置され五穀
豊穣、闘病平癒などが祈られていました。
 
江戸時代も後半になると常聖寺は火事にて廃寺となり、農地解放や廃仏棄却の影響で阿弥陀堂は解体され現塩山西広門田に移され、百体仏は阿弥陀堂から薬師堂へと移され合祀されました。
大正時代には、不動堂の荒廃を懸念した檀信徒により本堂へ移築合祀が図られ、その際に本堂脇の薬師堂を現在の位置へ移築(百体仏はこの時点で本堂へ合祀)するなど、寺領も大幅に変更されました。
この大正の大改修により、本尊十一面観世音菩薩と並び不動明王を本堂内に祀り、檀信徒により天井画が奉納され、既存の本堂に不動堂が合祀された他には類を見ない様相となっています。
 
当山は無住寺であった時代も長く、古い書物や江戸時代よりも前に遡る記実は現存されていませんが、地域の伝承と共に寺や集落が大切に守られた為、昔の面影を多く残しております。その先人達の思いが認められ、平成27年には上条集落が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定、当山では本堂、庫裡、仁王門、石垣、参道が保存対象として選定されました。
養蚕農家の隆盛を伝える建造物として上条集落は選定を受けましたが、現在では桃や李の果樹栽培が主となっております。当山は標高700m弱の高台に構える寺ゆえ、桜の開花も峡東地域ではもっとも遅く、その結果桃や李の開花が同時期となる故、境内地からの展望は他には見ることが出来ない桜を交えた桃源郷となっております。

木喰白道作 百体仏

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